三十三間堂
 三十三間堂
三十三間堂の建築
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 創建と歴史
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創建と歴史
創建と歴史
− お堂の再建と護持

 久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」を行いました。三十三間堂は、その御所に造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されました。
  その後も手厚く護持され、室町期・足利第六代将軍義教により本格的な修復が行なわれます。彼は仏門に入って、比叡山・天台座主を勤め、京洛の禅寺に修理の寄付勧進を命じて、屋根瓦の葺き替えをはじめ、中尊・千体仏と5ケ年を費やして内外両面の整備を行ったのでした。

後白河法皇画像
豊国大明神画像

− 太閤秀吉と三十三間堂

 当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、お堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いたのです。今も、その遺構として南大門・太閤塀(ともに重文)が残ります。
  お堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに遂行され、その意志を継いだ秀頼の代まで続きました。大仏殿は、文禄4年(1595)9月に完成し、千人の僧侶により落慶供養されたといいます。
  秀吉は、死後「豊国大明神・とよくにだいみょうじん」という神格として祀られ、お堂東隣の阿弥ケ峯には壮麗な社殿が造営されました。

− 通し矢と矢数帳

 その始まりは伝説的で不明ですが、桃山時代には、すでに行なわれたと伝えます。
  「通し矢・とおしや」は、お堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競ったもので、矢数をきめて的中率を競う「百射・ひゃくい、千射・せんい」等があり、江戸時代、殊に町衆に人気を博したのは「大矢数・おおやかず」で、夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競うもので、慶長11年(1606)の浅岡平兵衛の試技以来の武芸者の栄誉をかけたものとなり、尾張、紀州の二大雄藩による功名争いは、人気に拍車をかけ、京都の名物行事となりました。
  「矢数帳」には、通し矢法を伝承した〈日置六流・へきろくりゅう〉の江戸期の試技者氏名、月日、矢数などが編年で書き留められており、最高記録は、貞享3年(1686)4月、紀州・和佐大八郎(試技年齢は18歳という)の総矢13,053本、通し矢8,133本で、強靭な身心にしてこそ可能な凄絶な競技だったことが窺えます。

和佐大八郎掲額
通し矢が行われたお堂の軒下
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